193 今更、映画「野ばら」のチロルの山荘

1963年の中学生の最後の夏休みでした。
宙を自由に舞うピーターパンに憧れて、そのアニメを見に行ったら、心を奪われたのは同時放映されていた映画の、豪華な宮殿に住み美しい声で歌う横わけの髪の少年達の方にでした。
ここに来る若き日のオールドファンのブロ友さん達と同じですよ~。
さて、ごく幼少の頃だったのですが、横浜の伯母の高台の(実際はアメリカナイズされたお隣のばっぱの)家で、ラジオから流れる日本の児童合唱団のクリスマスソングを聞いたのを覚えています。
カラフルなランプの点いた小さなクリスマスツリーの横で「諸人こぞりて」を聞きながら、繰り返される「シュワキマセリ」の意味が分からなくてアメリカ語だと思っていました。
綺麗な歌声だったのは覚えていましたが、そのずっと後で見た映画のウィーン少年合唱団の鈴のように響く歌声とは違うものでした。
そうそう、つい最近のニュースですが、1465年にフリードリッヒ選帝侯によって設立されたベルリン国立大聖堂少年合唱団が、生粋の「少年合唱団」の伝統を守り続けると発表しました。
https://rp-online.de/panorama/deutschland/maedchen-darf-nicht-im-knabenchor-singen-mutter-klagt_aid-44996871
続いてレーゲンスブルク少年合唱団からも同じ発表がありました。
https://www.br.de/nachrichten/bayern/bald-auch-maedchen-bei-den-regensburger-domspatzen,RLp2Xkn
少年と少女では解剖学によって証明された声の違いがあるそうですよ。
音楽の才能のある9歳の少女が大聖堂少年合唱団の入団を断られて、その母親が裁判にまで持って行ったことからニュースになったのですが、法廷は伝統と芸術を重んじて「少年合唱団」は少年達のみで形成すべきと判断してくれました。
少年合唱団の歌声から何か特別な神聖さを感じて来たオールド達には、やはり特別な聴感能力があったっていう事になりませんかいな。
おっとっと、完全に道が逸れないうちに話を戻します。

フロシャウワー隊が来た翌年の1965年、フジテレビのテレビ名画座で偶然「野ばら」を見ましたが、ウィーン少年合唱団が出て来る映画とは全く知らなかったので、この場面で思わずパッと(今はよっこらしょの年代で)立ち上がりながらキャーッと叫んでしまいました。
この整然と並んで行進する少年達が画面に突然現れた時、64年組でやれなかった「キャーッ」を此処で初めてやってしまいました。
その時は運悪く、これまた偶然、横に大の外人嫌いの父が座っていたので、それはそれは物凄い軽蔑のまなざしで睨まれ-------。

その頃は合唱団はすでにセキルンの湖畔に移っていたのですが、いつもワンテンポ遅れている私は、アルプスの少女で憧れた、チロルの山々に囲まれた山荘のある場所の方が気に掛かるようになっていました。P1060918.JPGだって、感激して聞いていた古いレコードは、このチロルの山荘で夏を過ごした団員達が歌っているものばかりなのですもの。私の人生を変えた映画の「青きドナウ」に出演したウィーン少年合唱団の少年達も皆、あの山荘で夏を過ごしていたはずなのですよね。
チロルの山荘を知らないと言うウサギちゃんだって、彼のお父様は団員時代にこの山荘でオペレッタを演じていた一人なんですもの。
そう考えたら胸がキュンとしてきました。

さてそういう事で、私はこの夏、長い間の念願が叶って、ようやくその山荘のあったヒンタービヒルに行ってきました。H 2.Aug a.JPG「野ばら」や「ほがらかに鐘は鳴る」の映画を見ただけでは、わざわざあんなところまで行く気にはならなかったのでしょうが、1968年にオーストリアでこの「ウィーン少年合唱団」の本が出版されました。WSK.jpgウサギちゃんの親友のヨハネス君が表紙になっているこのドイツ語の本は、訳すのが面倒で写真だけ見てそのままになっていましたが、日本語版を手に入れて読んでから、いつかその伝説のチロルの山荘に行ってみたいと思うようになっていたのです。
そのページを写メして画像を入れながら自分なりに編集してここに載せますから、ま、読んでみて下さい。
blume-0417.gif von 123gif.de
東京音楽社「ウィーン少年合唱団」より 
        団員達のチロルの山荘
チロル山荘1.jpgヴィルゲンタールと言っても判らないのでヴィルゲン渓谷に直します。
で、次に出て来るホーエ・タウエルンは山脈の名前です。
1910年代のヒンタービヒルの様子。Islitzer1910.JPG
手前に白くうねって見えるのは「野ばら」でトニーが落ちたイシル川に繋がるドルフ渓流です。
川のこちら側の下方が後にウィーン少年合唱団のホテルが建てられることになる広大な敷地です。チロル山荘1a.jpg21586209_16.jpgチロル山荘2.jpgPraegraten.jpg2aチロル山荘.jpgtarockkarte.jpgチロル山荘3.JPGHinterbichl.jpgチロル山荘4.JPGWSK.jpg今はその近辺で夏の終わりに氷河などは見つかりませんが、その頃はまだ世界が温暖化していなかったので、山の上には白いきれいな雪が固まって沢山残っていたのでしょう。チロル山荘5.JPGAK_50865275_gr_1.jpgチロル山荘6.jpga.jpgチロル山荘6aa.jpgHint.jpg1936年代のウィーン少年合唱団員とハイモ・トイバー指揮者
15644978024874.jpgもうこれは題名も隊も分からない古い録音です。チロル山荘6a.jpg
wienerschnitzel-mit-kartoffelsalat.jpg1940年代のヒンタービッヒルの風景。1940 Hb.JPG川を挟んでホテルウィーン少年合唱団の向かい側には、この1606年からの伝統ある宿屋のイシリッツァーがあります。
それが当時シュニット神父の見た、たった1件の居酒屋でしょうね。
1950年代のウィーン少年合唱団のヒンタービヒルでの滞在写真を友人のライニーさんがネットで送ってくれましたが、この宿屋の入り口に掛けてあったものでした。
私はその写真を見て自分のこの目でみる事に決めたのです。チロル山荘7.jpgheimat_oldschool2.jpg写真は載せませんが、1939年から1945年までの第二次世界大戦のナチの統治下にあった間に、ウィーン少年合唱団も右手を挙げてヒットラーの為に歌わされた事もありました。
https://www.zeit.de/kultur/2019-03/nationalsozialismus-mittaeterschaft-rechtsextremismus-aufklaerung-10nach8
1935Mozartchoir0.jpg丁度この時期に、1930年から指揮者だったグルーバー先生がシュニット神父との意見が合わず、1937年に合唱団を辞めて新しい少年合唱団を結成しています。
ウィーン少年合唱団と同じセーラー服で帽子は「モーツアルト少年合唱団」の文字が読めました。
彼らはオーストラリアに演奏旅行に出掛けたまま、突発した世界大戦の為に帰国できなくなり、またそこではナチスとして扱われましたが、メルボルンの司祭が彼等の為に新しい少年合唱団を設立して、現地でそれぞれが里親に引き取られたそうです。
チロル山荘8.JPGWSK d.JPGhotel.jpgチロル山荘k.jpg丁度その頃、此処で撮影されたこの二つの映画が公開されました。
ダウンロード.jpg
1956.JPGLinienbus.jpgこのパンダみたいなバスは、本来普通の路線バスなのですが、映画ではまるで合唱団専用バスのように子供達を乗せて走っていましたね。
実際は地区から借り受けただけで、映画では5分間しかない場面だったのに、なんだかんだと撮影に1日中掛かったそうです。
それでこのバスの後ろには私達の良く知っているあのウィーン少年合唱団の小型のVWバスが2台、いつもくっついて回っていたのですって。
みんなはこの大きなバスに乗るのが大好きだったそうです。
それに余談ですが、ブロ友のM・Tさんが看護婦のエリカさんと会った時に聞いたお話し。
ミハエル・アンデは食事の時、他のテーブルで食べていましたが、ある時エリカさんに自分も合唱団員と一緒に座りたいと頼んだそうです。
エリカさんは「あなたが団員達みたいにお利口さんにしているならいいですよ。」と許可したそうです。
オーストリアには古くから「ウィーン少年合唱団のようにお利口さん」、という言い習わしがあるくらいなんですからね。チロル山荘.jpg
ホテルを背に立つレーダーホーゼ姿のマイヤー隊の少年達。Bubenhaus gg.jpg
「そうです。僕たちはホテルで水曜日ごとに20分間のミニコンサートをしました。日曜日の午前は少年達の家の裏でミサがありました。そして午後はそこでオペレッタを演じていました。」
あの美しい歌声を残してくれた当時の団員の方が語ってくれました。チロル.jpg約5000平方メートルの敷地にある上の丸印がホテルウィーン少年合唱団で下の丸印が少年達の家です。
下の白い矢印の場所で日曜日のミサや、コンサートやオペレッタなどが行われていました。
変わりやすいアルプスの気候から子供たちを守るように、ホテルと「少年達の家」は屋根で覆われた通路で結ばれていました。(写真はブロ友のyuichannさんからの提供です。)チロル山荘10a.jpg最後にこの山荘に鍵を掛けた人というのが、なんとその8年後の1971年にアウガルテンの案内役をしてくれたグレーガー先生でした。
このブログにもタウチュニヒ団長の右腕として良く名前が出ています。
初めてのペンフレンドのウサギちゃんや友人のライニーさんのプレフェクトでもあり、レコードで初めて見つけたソリストの名前でもあり、その先生が伝説になってしまった夏の山荘を閉じた方とは感慨無量です。
チロル山荘10.jpgチロル.JPG1963年まで少年達はチロルで夏を過ごしましたが、セキルンが開設されたのは1965年でした。
で、1964年はど~してたの、と思いましたが、どうやらその年はみんなは家族と夏を過ごしていたそうな。
でもアウガルテンでの合唱の練習は有ったそうです。

さて、ウィーン少年合唱団が去った後の山荘はどうなったのでしょう。_bubenhaus.jpg
eisen.jpgそのヒンタービッヒルの二軒の建物を、タウチュ二ヒ総長から買い取ったのは西ドイツのライン地方に住むレオ・アイゼン牧師でした。
彼は自分の故郷の名を取ってその山荘にホテル・ニーダーラインと言う名を付け、ライン地方の青少年や多くの家族の為に新鮮な空気のアルプスでの保養の場所として提供しました。

1981年にそこを訪れた元団員の方がその時の写真を下さいました。
ホテル・ウィーン少年合唱団の名前が消えて、ガストホーフ(ホテル)・ニーダーラインになっているのがわかります。
1981.jpgけれど、建物は合唱団のいた時と同じ形のままで残っていました。
Hinterbichl-Haus-Niederrhein 1981.jpg私はこの絵葉書を見つけた時に、絶対にこのホテルに泊まりに行こうと心に決めました。
このレストランに座ってコーヒーを飲みながら、元合唱団員のスマートなOB達がお客の接待をしていた昔の雰囲気を感じたいと願いました。
けれどその後に知ったのは、「少年達の家」だった建物で1993年に改装工事の際に火災が起こり、ヒンタービヒル始まっての大火事になった事でした。
1994年には再建されて、ホテルと共に再び経営されるようになりましたが、初めに建てられたホテルは古くなって取り壊しの話も持ち上がっていました。
牧師はウィーン少年合唱団の歴史あるそのホテルを守るために、アパートに建て替える計画で地区との交渉を続けていました。
けれどその計画が実行に移されないまま、2006年にアイゼン牧師が亡くなり、閉鎖されるまでの1年間は従業員たちの手で経営がなされていましたが、使用されなくなってから雨漏りなどで建物の損傷が進んで、とうとう2013年に取り壊される運命になりました。

残された「少年達の家」は2011年にドイツの経営者が買い取り、改築されて2013年からホテル・ハイマート(故郷)として今日に至っています。
Bubenhaus a.jpg次はそこに行ったときのお話しをしましょう。
feld.JPG

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この記事へのコメント

maa
2019年10月05日 03:45
ponkoさま
私はこの夏に長い休みをとりました。6月にウイーンに行って散財したのでずっと家にいるしかなく、今日紹介されていたウィーン少の本を読みふけり、古いレコードやテープを聞き続けていました。
そんなさなかに、このチロル旅行やフロシャウアー先生の悲報があったのです。ほんの偶然にすぎないとはいえ、この夏は自分にとってもウィーン少年合唱団の歴史に気持ちを注ぐ時間になりました。
昔の団員たちの素朴さに心を打たれたのは、文章の貼付け7枚めのところかな・・・
1924年のくだりです。子どもたちは原始的な宿泊施設で、頭の上から干し草が持ち込まれるようなところに泊ったけれど、それでも皆大喜びだったという・・・。はしゃいでいる様子が目に浮かびます。そうしてすっかり血色の良い少年になってウィーンに戻ったのですよね。
シュニット神父は聖職のかたですが、アクティブで愛する合唱団のためになりふり構わぬところがあり、それも印象に残っています。オペレッタを始めたのもシュニット神父の発案だそうですね。

私はフジテレビの名画座で「野ばら」を見逃しましたが、同じころにどこかのチャンネルで「会議は踊る」を見て、それ以来あの映画は私のナンバーワンです。
ek
2019年10月05日 07:24
Ponko様
数々のお手数に感謝いたします。
昨日の神聖なる祈りの時を過ぎ、訪れた憩いの場所には、チロルの清々しい風を感じる写真と共に、一度は読んだ事があるであろうあの山荘の歴史。今また読ませていただき、WSKの団員達が癒やされていた場所の写真から、ヨーデルや楽しい歌声が響いてくるように感じました。今は、全く外部の方の手に渡ってしまった場所でも、訪れたPonkoさんには、賑やかにはしゃぐ少年達の姿がそこかしこに感じられたことでしょう。続きのお話楽しみにしています。
ponko310
2019年10月05日 19:45
maaさん
私は64年組を見に高輪プリンスホテルまで行ったファンですが、興奮したお姉さまたちに圧倒されて、見たのは通り過ぎるバスの中の顔だけです。
二列に並んでさっそうと行進しているウィーン少年合唱団を見れたのは「野ばら」が初めてでした。
青きドナウには無かった場面ですよね。
maaさんの見た「会議は踊る」はこれですか。
https://www.youtube.com/watch?v=yUu5o2louRU
私もその頃同じ映画を見ていました。
この歌に感激して、最期の悲しい別れの場面では大泣きしました。
私達の時代もそうでしたが、物が無かったころはちょっとした新しい事が嬉しかったのですよね。
でも農家のわら小屋に寝るなんて、滅多にできない冒険のようで今の団員達も喜びそうな気がしますよ。
それにしても昔の団員達は本当に質素だったと思います。
この記事を書いていた時間はあの頃に戻ったようで、とても楽しい想像が出来ました。
これはオールドファンだけが理解できるのじゃないかと思っています。
ponko310
2019年10月05日 19:53
ekさん
今ベルリン(の近くの我が家)に戻って来てヒンタービヒルが懐かしくて仕方ありません。
もっともすでに寒くなっていて居心地はあまりもう良くないかもしれませんね。
今度の編集ではまたどっぷりとチロルの雰囲気に浸れるのが楽しみです。
「野ばら」の場面の場所に立って思いっきりアルプスの空気を吸って来ました。
トニーのように崖には登りませんでしたがね。
いろいろ思ってもいなかったことが判って行ってみて本当に満足しています
maa
2019年10月06日 13:23
ponkoさま
連投でしつこいですが、書き忘れたのがあります。
マイヤー隊のバッハが軽やかで美しく感動しています。映画「いつか来た道」でマイヤー隊を見ましたが、映画演出の何倍も才能豊かなコアだったと改めて思います。

それから今回の書籍の137ページです。チロルの話題から逸れてごめんなさい。下から8行目からの出来事は64年組のニュージーランド公演ですね。この時「ウィーンの昔の物語」で、隊長さんだったのは誰でしょう?
ponko310
2019年10月06日 17:08
maaさん
バッハのカンタータ、可愛らしいでしょう。
そうなんです、マイヤー隊も素晴らしい才能のある少年達の集まりでしたね。
さて、その本にある出来事の事ですが、私が当時少女漫画の切り抜きで読んだのは確か観客の女性がハンカチを落としたと記憶にありましたが、ハンカチじゃなくてプログラムだったのかな。
何しろ、隊長役のスメタナ君が止まれ!と言ってその落ちた物を拾ってお客に渡したとか。
それで読んだ時は、スメタナ君はわざわざ舞台から降りたのかな、と不信に思った事を覚えています。
それにしても落とした人はみんなの注目になりましたね。
自分で拾えなかったとは体の硬くなったよっぽどの老人だったか、それとも自分が拾うと言うようなサインをスメタナ君がその観客に送ったか。
ま、そんなことは彼は今では覚えていないでしょうね。
ryo
2019年10月07日 01:24
ponko様
私がヒンタービッヒルに行ったのは、もう30年も前のことです。それでも、この旅行が1番心に残っていて、絶対に忘れたくない旅になりました。「野ばら」と「青きドナウ」の足跡をたどる旅でした。朝、セキルンを発って、ヒンタービッヒルに向かうという日でした。東京のオーストリア観光局にヒンタービッヒルの情報を仕入れに行ったのですが、ヒンタービッヒルを誰も知らなくて、調べても出てこないと言われて、情報が何もないまま、どうやって行くのという状態でした。確かトーマスクックの時刻表を見て、リエンツまでは行きました。そこで、ヒンタービッヒルに行く本数の少ないバスに乗って出かけました。あのヒンタービッヒルにいけるのだ、とどれだけ胸がときめいたか。ヒンタービッヒルに着いた時、オーナーは変わっていたけれど、ここに泊まりたいと思いましたが、誰もいなくて、もうホテルは廃業してたのかもしれません。ponkoさんのブログでヒンタービッヒルの大火災の動画を拝見し、大ショックでした。でも、建物は取り壊される運命だったのですね?とにかく建物が現存している時に行けて良かったとつくづく思いました。
ponko310
2019年10月07日 02:49
ryoさん
何て素晴らしい旅行をされたのでしょう。
セキルンに行かれるファンの方はいらしても、ヒンタービッヒルにまで行く方は珍しかったのでは。
このコメントを頂いて興奮しています。
30年ほど前と言うと1989年頃の事ですね。
誰もいなかったのですか?
ドアも閉まっていたのでしょうか。
それとも季節外れの時期だった?
記録では2000年代の初めまでそのホテルは経営していたそうですが、すでに1989年には廃業していたのでしょうか。
何にしてもまだ健全だった少年達の家を見れたなんて、オールドファンの仲間としては誇りに思います。
素敵な、素敵なコメントをありがとう。
Yuichann
2019年10月07日 08:52
Ponko さん
昔の少年たちは質素で少年らしさを持っていたのですね、貴重な写真を見せて頂きありがとう御座います。制服姿の少年たちは可愛いし、私服姿の少年たちはたくましい、何方も胸キュンです!
空気の澄んだ山荘で伸び伸びと夏を過ごしたのでしょう。当時の観光客が羨ましい、ドラえもんのタイムマシーンが欲しいです!
今のセキルンは観光客は関係ない自分たちだけの時間を過ごしているのでしょう。
ponko310
2019年10月07日 16:11

Yuichannさん
この時代を考えると今の私たちが如何に恵まれているか改めて気が付かせられますよね。
ドラえもんの漫画を見たことが無いのですが、タイムマシーンで、1950年代に戻って、あのホーフブルクで会ったようなシャルマンな青年にサービスされて、チロルの景色を眺めながらお茶の時間を過ごせたら、もう幸せで最高に美味しいコーヒーになっちゃうかも。
せめて想像だけでも楽しいです。
でも、簡単に世界旅行が出来る今でもそんなシステムだったらそりゃぁ大変な事になってるでしょうね。
くわばら、くわばら。
タイムマシーンは私たち、団員たちから褒められたオールドファンだけの秘密にしておきましょう。
ryo
2019年10月08日 22:01
ponko様
67年組以降のファンの方たちはセキルンの方が印象が強いと思うのですが、野ばらと青きドナウで合唱団を知り、64年組の半数はセキルンで団員時代を過ごせなかったことを思うとヒンタービッヒルの山荘の方が思い入れが強かったです。絶対に行かねばならぬ場所だったのです。リエンツでホテルを予約し、受付で、ヒンタービッヒルに行きたいと言うと、「ヒンタービッヒルに行ったら日帰りで戻れないよ」と言われ、ここまで来て、行かないなんて考えられなかったから、ホテルをキャンセル。1日に2本ぐらいしかないヒンタービッヒルに行くバスに乗ったのです。1時間半の車窓の風景は、絵はがきでした。山荘の玄関は開いていて、何度も”Grüß Gott"と何度も叫んだけど、人が見当たらなかったのです。仕方ないので、近くのガストハウスに泊めてもらいました。素敵なご夫婦のオーナー。テラスから、「ホテル ウィーン少年合唱団」が近くに見えます。流れの速い川を見て、「トニーが溺れた川よ」「歌声ひびけばのバス通りよ」とはしゃぎました。あれだけ不安にかられたヒンタービッヒルは全く違うイメージになりました。セキルンで目覚め、ヒンタービッヒルでおやすみなさい、なんて1日を過ごせたなんて、今でも信じられません。
ponko310
2019年10月09日 00:06
ryoさん
このコメントを読んで、更に興奮しています。
1989年のヒンタービッヒルはどんなだったのでしょう。
私はその頃ウィーン少年合唱団とすっかり疎遠になっていました。
今年の夏にヒンタービヒルに行く前にこのコメントを読んでいたら、私はリエンツからバスに乗っていたかもしれません。
山荘の玄関は開いていたのですね。
ひゃ~、ドキドキします。
近くのガストハウスは何処だったのか、想像が膨らみます。
次の記事には沢山写真を載せますね。
私もセキルンよりもヒンタービッヒルの方がウィーン少年合唱団の夏の合宿所に結びついていて、どうしても行かずにいられませんでした。
本当に素敵なお話をありがとう。
もっと、もっと聞かせてください。
どんな小さなことでも嬉しく思います。
1964-1967
2019年10月10日 00:35
pomko 様のブログが好きです。合唱団の記事が豊富なのは勿論ですが、そちらのきれいな自然や街のようすなどを沢山見せて頂けるのもまた楽しみなのです。これからは秋の景色など機会があったらまた載せて頂けると嬉しです。
日本は今、週末にすごい台風が来る予報が出ていて落ち着きません。
一か月前の15号の時のような甚大な被害が出ないと良いのですが。今日は少し食料の買い出しをしました。
ponko310
2019年10月10日 01:31
1964-1967さん
嬉しいですね~、こんなお言葉をもらえるなんて。
そちらにまた大型の台風が来ることはネットで毎日見ています。
同郷にブロ友さん達が沢山いますので、何もないように願っています。
千葉の家々の屋根のブルーシートが風になびいているのを見ては、あの上から棒で押さえておかないと台風で剥がされるのにと、気が気でなりません。
そちらもしっかりと対策を整えて構えていてくださいますように。
こちらは急に寒くなり、木々が色を付け始めました。
今度の記事は夏のチロルですが、近くまた我が町の美しい秋の景色を紹介しますね。
ryo
2019年10月11日 17:53
ponko様
私の旅は、1988年でした。私たちが泊まったガストハウスが今も残っていますように、優しいオーナーご夫妻が、願わくば今もご健勝でありますようにと願っています。
忘れたくないこの旅を残しておきたくて、今、フォトブックを作っています。ただ記憶の中だけだと、いつか忘れてしまうかもしれないと不安になるからです。日記を書いておいたのも、助けになりました。ponkoさんはブログにたくさんの足跡が保存されていて、それが私の記憶の曖昧さやはっきりしなかったことに示唆をしてくれます。
この旅でヒンタービッヒルに向かう前のセキルン編は、マルシーク率いるブルコアが89年に来日しますので、さらに話が翌年に引き継がれていきます。
ponko310
2019年10月11日 22:07
ryoさん
今ちょうどヒンタービヒルへの旅を編集していますが、いつもの如く、枝分かれの調べものが出て来て先に進みません。
私は今、ryoさんのおっしゃる旅日記に物凄く惹かれています~。
いつか読ませていただきたい!!!
ryo
2019年11月10日 01:36
ponko様
今またponkoさんの話と私も大事にしているウィーン少年合唱団の本を読み返していました。そして、ここでまたイシリッツァーの名前があったのに気づきました。ponkoさんの取材によると、1606年に建てられたとか。そんなに歴史のあるガストホーフだったのですね?昔の写真では泊めてもらったイシリッツァーとはわかりませんが、そんなに昔から守ってこられた一族の努力にも頭が下がります。
私は勘違いしていたようです。私がイシリッツァーから見ていたのはホテルWSK。大火事でしたが建物は残り、ホテルWSKは最近のように思える2013年に老朽化のため取り壊されたのですね?残った少年の家がホテル ハイマートになったのですね?
64年には、夏、団員たちは家族と一緒に過ごしていたとのことですが、買い取られてからふた夏は、お客として滞在したようなので、64年来日組もヒンタービッヒルの夏を楽しめただろうと思いました。
ek様は詳しいと思いますが、ヒンタービッヒルは高地なので、子どもたちの歌う環境を考慮して、タウチュニッヒ団長は、セキルンに目標を定めたと何かで読みました。
ここでしまたponko様のおかげで、新たな情報を得ることができました。ありがとうございます。
ponko310
2019年11月10日 20:22
ryoさん
はい、火事で燃えた少年達の宿舎が建て直されて今のハイマートになっています。
けれどその土台になっていた一部が入り口近くに置いてありました。
聞かなければ見過ごしてしまうような石の塊です。
1963年まで山荘は合唱団に使われたのですから、64年組にもセキルンに行く前はヒンタービヒルで夏を過ごしていた団員はいるはずです。
日本に来た年長組は必ずですね。
私の調べたことが自分自身の興味本位ばかりでなく、楽しんでくれる方もいることが嬉しいです。
ek
2019年11月10日 22:49
Ponko様 ryo様
お二人がチロルの山荘をその目でご覧になり、山々の雄大な自然の中で合唱団の少年達が過ごした日々を間近に感じられた事 羨ましく思います。
Ponkoさんが撮され ブログに掲載してくださった写真とお二人のお話から 私にもそんな空気感を味わうことが出来ました。
ryoさん、私はペンフレンドだったと言いながらも、皆様のような探究心が乏しかったのか全くもって詳しい情報をもっておりません。
私達が文通を始めたのは、64年の演奏旅行から帰国してからでしたので、それ以前の事は残念ながら知ることは出来ませんが、彼からの手紙を繙き 彼が夏をどう過ごされたか読み返してみました。
64年 日本やオセアニアでの演奏旅行を終え ウィーンに戻られたのはもう夏。旅行後 きっとしばしの休暇を過したとおもいますが、チロルから絵葉書が届きました。それがあの山荘での事なのかは定かではありません。
翌年65年の春3月から三ヶ月のヨーロッパ内の演奏旅行 6月に戻られ、8月から9月にかけてはイギリスへ演奏旅行。その間を合唱団の仲間と休暇を過したと手紙に書かれていました。それがチロルなのか?ぜキルンなのか?
66年はアメリカへ演奏旅行。67年に退団した彼は ご両親とチロルの思い出の地で過ごしたと知らせてきました。きっとあの山荘なのではないかと想像しています。
68年の7月末 明日から元団員達とゼキルンの合唱団の家で過ごすと書いて来てくれました。等 まったく詳しくわかりませんが、チロルと、あるのはあの山荘ではないかとおもいます。
今になって もっといろいろお話聞かせてもらえば良かったと悔いています。こんなお話しか出来ない事 お許しください。
ponko310
2019年11月11日 19:52
ekさん
沢山のお手紙の中から、夏休みのお話の書かれたお手紙を見つけ出すのは大変じゃなかったですか。
64年後のフロシャウワー隊の演奏旅行のお知らせもありがとう。
彼らの歌声を追跡するファンの方にとってはどの国に行っていたかが判って嬉しいと思います。
もし67年にヴォルフィーさん達がヒンタービヒルで過ごしたなら、ホテル・ニーダーラインかもしれませんね。
そのホテルのお客様も給仕も、殆どがドイツ人で、ウィーンの友人がチーズケーキと泡立てた生クリーム入りのコーヒーを頼んだら判らなかったそうです。
チーズケーキはオーストリアではトップェンクーヘンと言い、ドイツではケーゼクーヘンと言うのですし、生クリームはドイツではザーネですがオーストリアではオーバァスですよ。
私が行った時、ホテル・ハイマートもほとんどのお客様はドイツからでした。
ryo
2019年11月11日 21:49
ponko様
ponkoさんが紹介して下さっている、合唱団の本の中に、新しいメンバーが加わっているフロシャウアー組が、ロンドンブリッジの前で撮った写真がありましたよね?
ek様

ek様
それが、ヴォルフィー君が手紙に書いてくれた、日本・オセアニアの旅の後に行った3か月間のヨーロッパ公演旅行かもしれませんね?ヴォルフィー君は、日本に来た後、フロシャウアー組の動向をしらせてくれ、それをekさんが知らせてくれたおかげで、私も知ることができました。ありがとうございます。またek様は声楽がご専門なんじゃないかと思って、ヒンタービッヒルからセキルンに移ったわけが偶然ではないことがわかるのでは、と思ったのですが、1000mぐらいのところでも、子どもなら高山病にかかることもあるらしいです。68年にセキルンの穏やかな気候の中で、卒業生たちは楽しんだのですね?

ponko様
そのロンドンブリッジの写真に、ピューリンガー君がいません。64年の冬に撮られたというビデオにもいません。少女雑誌では、風邪をひいて、家に帰っていると書いてあったのですが、ずっと、そんなはずないだろうと思っています。年長の団員が卒業した後、ponkoさんが書いてくださったタイマー組とハラー組とで再編が行われた話のように、ピューリンガー君は他のグループに動いたのかもしれませんね?
ponko310
2019年11月11日 22:50
ryoさん
ロンドンブリッジでの写真、見ました。
左にまだ誰かいるみたいですが、切れて写っていません。
ワルター君が風邪で家に帰っていたという記事は知りませんでした。何しろ少女雑誌は買った事が無かったので、全ての切り抜きを知っている訳ではありませんでしたから、そのニュースは初耳でした。
他にも何か書いてありましたか?






ek
2019年11月11日 23:16
ryo様

私は歌が好きで、特に皆で歌う合唱が好きで合唱団に所属していたという単なる趣味のようなもので、声楽を専門に学んだわけではありませんので、詳しいこと 正確な事はお話できないのですが、ヴォイストレーニングでは、常に先生から喉を締めてはいけないと指導を受けてきました。声の響きは空気の振動により伝えられるものだと思いますので、高地等の空気の薄くなる所では、喉に思わぬ負担をかける事も起こると思います。
ただ チロルの山々が高いとはいえ、団員達が常に野外で歌うわけではありませんしね…。
私は、少女時代に憧れをもって見た「野ばら」から、夏の休暇を楽しむ彼らにとっては、あの大自然に囲まれた素晴らしい環境下で過ごせる事は最適な場所だと思っていました。あのヨハン大公を歌いはじめたクレン君の様に気分よく歌が生まれるなんて素敵ですよね。
ただ 我が友はゼキルンで泳ぐことを楽しみにしていると書いてきたことがありました。
団長はそんな事も兼ね備えた場所を!と考えられたのかもしれませんね。
maa
2019年11月12日 21:12
ponkoさま
途中で送ってしまった。
書き加えますから、まとめてください。

ここにあります。
一番下のサムネイルを >の方向にクリックしていくと見つかります。
ryo
2019年11月13日 00:33
ek様
ponko様のお部屋をお借りして、oldのファンの方たちには東チロルの少年の家がなつかしいですよね?戦争を挟んで、平和な時を過ごせた少年たちも幸せだったことでしょう。でも、セキルンができたときに、新しい建物とヴェルター湖で泳ぐことは、ヒンタービッヒルではあじわうことができなかった体験で楽しみだったのでしょうね。
ekさん、声楽の知識、ありがとうございました。
ryo
2019年11月13日 01:33
ponko様

また間違えていました。ロンドンブリッジではなく、ビッグベンでしたね?ponkoさんがおっしゃる通り、左の数名は写っていません。1964年の年末に撮影された、あのビデオにピューリンガー君とハルハマー君はいません。1964年の日本・オセアニアの公演からウィーンに帰った彼らの動向はほとんどありません。知らないのは私だけ?それだけに、ekさんの往復書簡の情報は貴重です。1965年1~4月にかけて3か月のヨーロッパ公演は、イギリス・デンマーク・スイスで、ビッグベンの写真はこの時だと思われます。オーストリアに戻って、ほどなくシャーリング君は変声期を迎えます。少女雑誌で退団を伝えられたのは1965年8月でしたね?ピューリンガー君はいつ退団したのかわかりません。
ponko310
2019年11月13日 03:25
maaさん
なんと有り難いお報せに感謝します。
ルカからこのリンクをもらって、どこかの記事に載せたはずでしたが、これらの写真には全然気が付きませんでした。
きっとryoさんも大喜びすると思いますが、ワルター君はやっぱりいませんね。
日本で私達が見たのが最後の制服姿だったのかな。
フロッシーの若い姿を見て目頭が熱くなりました。
ponko310
2019年11月13日 03:35
ryoさん
ロンドンブリッジだろうがビックベンだろうが、64年組だから背後の景色などどうでもいいのです、あはは。
maaさんからの口添えで残りの半分が見れましたが、ワルター君はいません。
心が痛いけれど、二人共ルカみたいに日本公演で見たのが彼の最後の制服姿だったのでしょう。
ek
2019年11月13日 08:01
maa様 ryo様
様々な情報をお知らせくださってありがとうございます。
私も遠い昔 64年組来日公演の事 メンバーの事が掲載された雑誌等はあれこれ買い読んでいるはずなのに…記憶力が。
それ上 友の載せられた記事は彼に送りました。彼からの手紙には時として送った記事や写真 テレビ放映時の録音テープを楽しんでいるとの嬉しい知らせが届きました。
仲の良いメンバー達と日本旅行の記念の品を持ち寄り過ごすこともあるとの事。どんな話しが出たのでしょうね?
どんな思い出の品を持ち寄ったの?と伺った所 「僕が持っていったのは、全部あなたの知っている品です。そして僕の心の中の生涯忘れられない素敵な時の思い出です」とのお返事でした。
前にも書かせていただきましたが、彼の団員時代の思い出の品々を保管してある書庫の前に座り込み 長い時間を過ごしているとご家族から伺った事もありました。
私達と同じようにあの素晴らしい時を思い、楽しみ、大変な忙しささえ懐かしんでいたのだと思います。彼にとって合唱団員として過ごした年月 約5年そして卒業生としてライニーさん達と過ごした年月 マルシャートさん達と演奏家として過ごした年月は生涯の宝物だったとおもいます。そして そんな宝物を知らせてくださった彼からの手紙が今の私の宝物です。
ek
2019年11月13日 10:47
Ponko様

Ponkoさんのブログでは、我が愛するウィーン少年合唱団の歴史を改めて学ばせていただいたり、お気に入りの歌のソリストさんの事やらいろいろ教えていただき感謝で一杯です。
maa様が改めてお知らせ下さったあの写真はPonkoさんがフロシヤウワー先生のご逝去のお知らせの際に ルカさんから教えて下さったWSKのサイトを載せてくださった際に 私はちゃんと下の方まで見せていただきました。Ponkoさんが見逃してしまったとは…。
でも、さすがmaa様 そんな事もあろうかとちゃんとフォローしてくださっていますね。良かったですね(笑)
でも我が友はかくれんぼです。

64年からの長い55年の歳月を今年ほど感じ、素晴らしい時間を過ごしている自分の幸せに気づいた事は無かったかもしれません。 
私がPonkoさんのお部屋にお邪魔させていただくようになってまだ3年足らず。でもその時間はチロルの清々しい気分とウィーンの華やかな楽しい気分を思わせる素敵な時になっています。
そしてオールドファンが熱狂して迎えた64年組に友を持てた幸せを熱く感じ またもや読み返し始めた友からの45年間の手紙の一通一通に感謝の気持ちで一杯になっています。
そんな事を感じさせてくださるPonkoさんのブログに感謝と\(^o^)/!
ponko310
2019年11月13日 18:41
ekさん
わたしゃもうだめですわ~。
あの写真、見ていたかもしれない。
でも、記憶にないのですよ~。
ルカからリンクをもらって、写真を見るよりもお返事の方に集中してしまったのかもしれない。
それにヘルちゃんが亡くなって、見るに忍びなかったか。
今はもう大丈夫ですから、リンクを開いて懐かしい顔を楽しんでいます。
先生の最後の日々の写真と比べるとやっぱりお歳をめされたなぁ~、としみじみした気分になります。
てへっ、maaさんは私の注意散漫に気が付いたのかもしれませんが、いつもありがとう。
何度助けられている事か。
maa
2019年11月13日 21:28
ponkoさま
フロシャウアー先生のあの時の写真は全部ダウンロードしてあります。いつかHPから消されてしまうかもしれないから・・・。
ロンドンの写真はあの本の中にいるフロシャウアー組の中でおとなっぽく成長した来日組が写っている貴重なものです。その左端の欠けていた部分が見つかって嬉しかったです。ponkoさんの忘れっぽさは承知していますが、自分も負けず劣らず書いたことをすぐに忘れるのでお互いさま。ここの読者はみな、そんな可愛いお年頃だと思います。

ryoさま
シャーリング君退団の号のあと、退団物語が続きました。ピューリンガー君、レオポルト君、レッシュ君、ネンメルト君、タイブル君でした。夏に国会図書館に行ったときの記憶です。
ponko310
2019年11月13日 22:09
maaさん
あ、ダウンロードね。
私もしておこうっと。
ドイツにこんな冗談が。
患者「先生、助けて下さい。ひどく忘れっぽくなってまずいことになっています。」
医者「それは困りますね。いったいいつ頃からですか?。
患者「は?何のことですか?」
ryo
2019年11月14日 00:38
ponko様 maa様 ek様 

確かにビッグベンだろうがロンドンブリッジだろうが、関係ないです、私も。
私はmaa様が教えてくださったあの写真、ダウンロードしたはずなのですが、ponko様のブログから大量にいただきものをしているので、見つからないのです。ponko様、たくさんいただいて、ありがとうございます。あの写真が本の写真の左部分だと気づかなかったのです。シャーリング君もレッシュ君も写ってないなーと思ってて。maa様、知らせてくださってありがとうございます。これで、完全なロンドン公演の写真になります。そして、少女雑誌の団員たちの退団後の話は、私、読んでいます。ピューリンガー君がその取材の後、交通事故に遭いました。アウガルテンの年金生活者の家に残っていたのは4人だけで、ピューリンガー君やハルハマー君は、64年の年末からいずこへ?ムント組やナイダー組やフルトモーザー組に混ざっていたのでしょうか?退団するにはまだ早い。
ek様、またまた新しいお話、ありがとうございます。お宝の前で座り込んで見ているボルフィー君、妄想するだけで楽しいです。
ponko様のブログにおじゃまするようになって、まだ少ししか経っていませんが、貴重なお話と貴重な写真と知らないことをたくさん教えていただいて、楽しくてしかたないです。」