196 アルプスへの旅 2ヒンタービヒル

Gewidmet dem ehemaligen Wiener Sängerknaben, die hier den Sommer verbracht hatten.

2019年8月13日
新鮮な空気の中でヒンタービヒルの初めての朝を迎えます。
あっ、あの山の形は。P1130.jpg遠くに見えるのあの山並みは映画「野ばら」のあの場所に違いないと思うと、こうしてヒンタービヒルに来ている事に感慨もひとしおです。野ばら.JPG

このホテルの食堂には様々なスパイシーオイルや薬味が用意されていて、自分で好きな味をミックスできるようになっています。Speisesaal.JPGここも「少年達の家」の時代の風情とは違っているのでしょうね。Heimat.JPG窓辺には無添加食材で作られたパンが並んでいます。H Heimatspeisesaal (2).JPG本当はあの木造の小屋のある場所にホテル・ウィーン少年合唱団があったのだと考えながら、窓際に席を取りました。
1963年まで少年達は此処に座って食事をしていたんだなぁ。H HEimatspeisesaal.JPGあの子たちもあの山を見ながら朝食のパンを食べていたんだ。H Heimatspeisesaal (3).JPGそしてここには敬虔な人々が集まって、ウィーン少年合唱団のミサの歌声を聞いた日曜日があったのだと想像しながら。feld.JPGこんな写真を見ると目頭まで熱くなり、更に感慨ひとしお。Bubenhaus (2).jpg50年代のWSKの海外公演のプログラムには大抵これが載っていたそうです、とmaaさんが教えてくれました。
50年代広告.jpg「 ・・・チロルで休暇をウィーン少年合唱団と共に
ウィーン少年合唱団が東チロルの近代的なホテルで、芸術への喜びと保養を提供いたします。
グロースグロックナーとグロースヴェネディガーの間にあるヒンタービヒル、1400mの高さに素晴らしい山脈に囲まれたホテル・ウィーン少年合唱団があり、あなた方の訪問をお待ちしております。
宿泊料金は8~9マルク。ご案内書とご質問はウィーン少年合唱団の宿舎に。ウィーンⅡ区アウガルテンパレス。7月1日から10月15日の間はホテル・ウィーン少年合唱団。ヒンタービヒル、ポスト プレグランテン リエンツ近郊」
値段がマルクになっているところを見るとドイツの公演のですね。
この8~9マルクと言う宿泊料金ですが、なんだか3食付きみたいです。
凄い 1950年代のマルクの実勢価値が知りたいですね。

何はともあれ、辺りの探索は朝食を終えてからです。Heimet F.JPG
食堂の前には昔の写真が飾ってありましたが、ホテル・イスリッツァーにあるのと同一の写真も何枚か発見しました。H Heimat e.JPGこの写真をまじまじと見ているところにオーナーがやって来て、毎年何人かの元WSKが来ていると話してくれました。
でも残念ながら今回は誰とも遭遇しませんでしたけど。

ところでオーナーがとても不可思議な話をしてくれました。
3年前に、オーストラリアから3人のご婦人が、ウィーン少年合唱団員だったご自分のお爺さんを同判してこのホテルに泊まりに来ました。

そのお爺さんはすでに骨壺の中の人になっていて、亡くなる前にチロルのヒンタービヒルにある「少年たちの家」の後ろの大きな岩に自分の灰を撒いてほしいと遺言を残したそうです。H Bubenhaus a.JPG
自分は戦争で国に帰れなくなり、団員時代に懐かしい夏の山荘でいつも登って遊んでいた場所を何度も夢に見たと言っていたそうです。
私はその方がすぐにあの少年達の中にいたと判りました。
https://ponko3.at.webry.info/201506/article_1.html」の記事の最後に載せてある、ドキュメンタリー映画にもなったらしいウィーン・モーツァルト少年合唱団の哀れな少年達の事です。
あの記事を書く動機になったのは動画のこのコメントでした。
suzanne kruys
6 年前
The picture I have on display is my dad. He was one of the boys in this picture. They all ended up staying in Australia, marrying and having children. One of the boys went back to live in Vienna after the war to look after his parents. All the others stayed here. What a story!
I'm so glad these twenty boys were stranded in Australia for the rest of their lives (except for maybe one). Standing on the dock in WA ready to board the ship to go back home to Vienna on the 1st of September 1939. Lucky they declared war before they sailed away. I have an amazing story SBS brought out marking the 50th anniversary of their lives in Australia. How interesting it is and how lucky they were! Beautiful voices! Beautiful boys! Beautiful men!
アウガルテンではこの合唱団はウィーン少年合唱団と関係無しと言っていますが、私の思うところでは、シュニット総長と対立した指揮者のグルーバーが新しい少年合唱団を編成した時に、彼のクラスの何人かの年長の少年達が彼を慕ってその合唱団に移って行ったのではないかと。
当時の聡明で自立心のある13や14歳の少年なら、敬愛し信頼する指揮者には自分の意志で従い付いていくのでしょうから。
多分その少年達はウィーン少年合唱団員であった頃に、何度かヒンタービヒルで夏を過ごしていたのではないでしょうか。H Bubenhaus.JPGそうでなかったらそこで登った岩の事など知る由も無いしね。
案の定、山荘時代の元団員達には、そこに登って遊ばなかったなどという腕白は一人もいなかったようですし。
ただの推理だとは言え、全てに不思議な糸の繋がりを覚えます。
俄然このヒンタービヒルを愛しく思うようになりました。
まず表に出ると、おっ、此処の飼い犬のルーカスが挨拶に来ました。H Lumas.JPG
今日は映画「野ばら」のようにレーダーホーゼの団員達が山歩きで行ったと言うロストック小屋に行こう。
hinterbichl.JPGと、簡単に思っていましたが、地図を見て仰天。
https://www.fotocommunity.de/photo/zustieg-zur-essener-rostocker-huette-jan-schliebitz/40022707(此処を開くと少年達が登ったアルプスの素晴らしい山の景色が出ます。)
ベルリン大聖堂の展望台に上るのにもひぃひぃと死にそうなのに、あんなに高い山に5 時間も掛けて登れるかぁ~。
と言う事でまずはこの辺から。Hinterbichl 9.jpg
ブロ友のyuichannさんからいただいた1960年代初期の写真です。
白と青の矢印はウィーン少年合唱団所属の建物です。
キャンピング場もホテル・ベルククリスタルもまだ無い。
黄色の矢印は美味しいシュニッツェルを出してくれるホテル・イシリッツァーでその前を流れているのはドルフ渓流。
その川がトニーの落ちたイシル川に合流していて、赤の矢印の小さなチャペルの場所がその合流しているところです。H Berg.JPGそのチャペルはこの写真の右に在ります。
過去においても、少年達やお客たちは、ホテルから出た時にはこの広場で目の前の山並みを見ていたことになりますね。
ドルフ川に掛かかる橋に向かいましょう。
H zum Maria Hilf.JPGほら、またあの見知った山です。P1130245.JPG川に落ちたトニーの意識が戻る時、アベマリアが歌われたこのミサの場面は少年達の家の裏ではありませんでしたが、あの2件の家は近くの山の上にありました。P1140038.JPGちなみに野ばらのトニーの歌声を担当した団員はソプラノソリストのハンス・クレス君だったそうです。P1140040.JPG
P1130340.JPGこの道は狭く見えますが定期バスだって通れたのですからね。
右に見える木造の建物は昨夜、食事をしたホテルイスリッツァーです。右イシリッツァー.JPGryoさんはこのホテルに見覚えがありませんか?Hotel Islitzer.jpgあなたは31年前にこの矢印のバルコニーから旧ホテル・ウィーン少年合唱団を眺めることが出来ていたのですね。
そしてまた改めて少年達が山歩きで最初に渡った橋を眺めます。P1130341.JPG今日も変わらず渓流の流れは凄まじいですね。ISEL.JPG広場から見えて、気に掛かっていたチャペルです。P1130370.JPG見栄えは大したことも無い石造りの教会ですが300年も前から建っているそうで、聖セバスチャン・クリザンテン教会という名前でした。
チャペルの横から撮ったドルフ川とイセル川が合流している様子です。P1130291.JPGイセル川の流れに沿って少し先に行くとバスの停留所と駐車場があって、道路を隔てた場所にモダンな石造りの建物がありました。H Wasserkraftwerk.JPG大火事があったところなので消防署かと思いきや、近寄ってよく見たら水力発電所でした。
何でもこの建物の建っている21平方メートルの土地はウィーン少年合唱団のものだそう。
でも、彼らがセキルンに合宿所を変えた後はプレグランテン自治体が勝手に此処に発電所を建てたみたいです。
ヒンタービヒルで夏を過ごした(定年退職で今では暇な)元団員達が(暇にまかせて)調べたところ、リエンツの土地の登記簿にはウィーン少年合唱団の土地だと、ちゃんと登録が残っているそうです。
ま、ここらへんで戻ることにしますが、その時にまた一つ映画の場所を見つけました。P1130243.JPGトニーが川に落ちた時に男性がそれを追いかける場面です。
向こうにあるのはホテル・ウィーン少年合唱団と少年たちの家。
この橋は二つの川が合流したすぐ近くに掛かっていました。H Isel a.JPGこの橋を渡ってイセル川の流れと反対に歩いてみます。P1130440.JPGそしてあの橋を渡って・・・・Isel (2).JPG橋の上からのイセルの眺めですが、この渓流はマトライの街を通り、リエンツでドラバ川と合流していました。
そのドラバ河はハンガリーの特別自然保護地区でドナウ河と合流しているのを発見。
映画「野ばら」のトニーはボートに乗ってハンガリーからドナウ河を遡って避難して来たのを覚えていますか。
そんなこんなでイセルとドナウは間接的とは言え繋がっていたのじゃ。
さぁ、キャンピング場の脇道を通って戻ります。P1130442.JPG此処でキャンピングをしているほとんどの人がオランダ人でした。H isel.JPGぐるっと回ってキャンピング場からチャペルとその橋を撮りました。
入り口にはキリスト像が今も昔も変わらずに立っています。OThotel726rugg.jpgそしてこの像をここでも見つけましたが分かりますか。
schoenstetagmeineslebens32.jpgキャンピング場は映画でバスの停留所になっていたのかしらね。
左の農家らしき建物は普通にまだしっかりと存在していますよ。

お茶の時間のあとで、このイセル川の上流に行ってきますね。
その前に昨日見た水車小屋に行きます。H Bach.JPG
素敵な眺めでしょう。
水車小屋の後ろの木枠が何かmaaさんに聞かれて多分トウモロコシの干場じゃないかと書いたら、こんな写真を送ってくれました。Wasser.jpgこの通り、トウモロコシを干す場所じゃなくて、川に落ちて濡れた少年達を干す場所だったのでした。
向こうはホテル・イスリッツァーです。H hotel is.JPG
だけどなぜ映画でこの水車小屋が出なかったのでしょうね。

私達はこれからこの近くにあるマリアヒルフ教会に行きます。H Maria Hilf.JPG歩いても行けるところなのですが、1時間近く掛かるそうで、そうするとイセルの上流に行く時間が無くなるので車にしました。H Maria Hilf a.JPGここには絶対に団員達もハイキングに来ていると思います。
山小屋の立て札があったので此処でお茶の時間にしようと思いましたが、どうやら閉まっているようでした。P1130388.JPGおや、これから猫のデュエットが始まるところですよ。H Maria Hilf b.JPG野良猫とは思えないほど人懐こいのですが、人っ子一人いない場所なので餌をどうしているのか気に掛かりました。
お茶が飲めないので仕方なくこのまま戻ることにします。
帰り際に見えた景色です。P1130376.JPG
むむっ、なんとホテル・ハイマートも、ホテル・イスリッツァーもすっかり木々に隠れてしまっているではないか。
でも、この標識はしっかりとカメラに納めました。
P1130356.JPGイシリッツァーのアイスクリームも美味しい。P1130450.JPG
その跡ホテルの横の丘に登ってみました。hinterbichl.JPGわぁ、まるでハイジの小説の中の野原のようです。
こんな景色の中をはしゃぎまわる団員達を少女時代に夢で見ました。
P1130412.JPGここからならはっきりとヒンタービヒルの様子が見えますね。
P1130413.JPGこの右の山小屋には二人の子供連れの若い夫婦が住んでいて、夏中借りて休暇を過ごしますと言っていました。
此処まで電気や水道は通っているかな、聞かなかった。P1130419.JPGブロ友のryoさん、ヒンタービヒルの野生のラズベリーですよ。
コメントを頂いた後で載せました。P1130414.JPGこんな草花もありました。

映画「野ばら」などのウィーン少年合唱団の思い出が無かったら、私はこんな辺鄙な場所に泊まりに来ることはなかったかもしれません。
さらに拍車を掛けたのが60年代前半までの元団員の方々の想い出のお話や写真でした。
その頃のウィーン少年合唱団の歌声は私にとってまさに天上からの神聖な贈り物でしたからね。

さて、これからイセルの上流に行ってきます。
疲れたのでもうおしゃべりはしないで景色だけです。
H Hubertuskapelle.JPG
P1130395.JPG
P1130394.JPG
P1130393.JPG
P1130392.JPG明日はフォアアールベルク方面に向かって旅立ちます。

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この記事へのコメント

ek
2019年11月03日 07:47
Ponko様
あ~チロル!何度も「野ばら」を見直して予習しておいた甲斐がありました。素敵な景色! 清々しい空気!なんだかじ~んと胸が熱くなり、ウィーンの少年達の元気な姿さえ浮かんで来ました。
Ponkoさん ありがとう!歴代の合唱団員が、ここで仲間と楽しく夏を過ごして 演奏旅行の疲れを癒し 、自分達の国の美しさを満喫し、自然に生まれてくるであろう歌に一人 二人と加わって合唱になってこのチロルの山々に響き渡った事が何度もあったことでしょう。
この以前の山荘という建物が、その後のゼキルンの近代的な建物と違い 、更に夏を楽しむ雰囲気が伝わって来るようです。
お話の中にあったモーツァルト合唱団の故郷に帰れなかったメンバーのお話 辛く悲しい出来事ですね。故郷の地に帰れたこと良かったですね。素敵なお話ありがとう!
ここ数ヶ月 日本のニュースで写し出される風景も、このチロルの様に緑いっぱいの山と川に穏やかな時の流れがあったんだな~と辛くなります。
maa
2019年11月03日 10:10
ponkoさま
野ばらのサントラ盤が届きました。本当に映画のシーンのまま録音されていました。野ばらの歌の吹き替えは誰なのかわかりませんが、「歌声ひびけば」のソロはクレン君だとわかりました。いつも昨日のことのように話をしているので60年近く前ということを忘れがちですが、レコードを聴いたらチリ音すごくて、やっぱり昔なんだわと改めて感じます。その足跡を訪ねることができてよかったですね。
風景はかわっても、何かが残っている気がします。渓流の音を聞きたいと思っていたので、YouTubeに上げてもらって嬉しい。それに映画で聞こえる少年たちの声を重ねれば、向こうから歌いながら歩いてくる合唱団の姿が目に浮かびます。
グルーバー先生の教え子の話は、私もponkoさんの推理に同感です。最後にヒンタービッヒルに帰りたいと願った、その団員クンの気持ちを思うと胸があつくなります。
またDVDを見なければと思います。
ponko310
2019年11月03日 18:40
ekさん
あなたのペンフレンドのヴォルフィーさんもきっとあの岩の上によじ登ったのでしょうね。
ヒンタービヒルはファンや元団員達も含めて私達オールドのノスタルジーだと思います。
ノスタルジーは歳を重ねるごとに甘く切なく美しくなっていくものじゃありませんか。
とは言え現実はチロルの山荘は山歩きだけで、ゼキルンのように水泳が出来ないので、子供達の事を充分に考えたタウチュニヒ団長の決意を良しとします。
ponko310
2019年11月03日 19:20
あ~っ、maaさん
コメントを読んでレコードの写真と文章を入れるのを忘れました。
ちょっと書きくわえることにします。
maaさんも私の推理に同意してくれますか?
私はグルーバーに付いて行ったのは彼に何年か指導を受けていた年長組だと思います。
きっとしっかりした賢い少年達だったのでしょう。
あの動画のコメントにあったオーストラリアの女性の言葉には涙が出るほど感動しました。
あのコメントを書いた女性の娘さん達がお爺さんの遺灰を持ってヒンタービッヒルに来たのだと思いました。
素敵なコメントをありがとう。

ryo
2019年11月04日 01:36
ponko様
何と言ったらいいのか、自分の気持ちをうまく表現できません。もう胸がいっぱいです。このヒンタービッヒルの話の中に、「野ばら」のことやオーストラリアの元団員の話やイスリッツァーのことや、話したいことが満載で、何回かに分けてコメさせてください。
イスリッツァーですが、前のponkoさんの写真から見つけられなかったわけがわかりました。一つは木がガストホーフの周りに茂っていたこと。30年前は木が茂っていなかったのです。もう一つは30年前は建物の色が薄くて茶色。今のイスリッツァーは黒っぽく見えるのですが、違いますか?光の加減でしょうか?ここまで大きく写真を載せてもらうと、私でもイスリッツァーだとわかりました。30年前、バルコニーでお茶しながら、ずっとホテルWSKを眺めていました。「野ばら」で、青ドナで、ホテルWSKが出てこなければ、あそこが合唱団の夏の山荘だと知らなければ、東京のオーストリア観光局まで調べに行くこともなく、ヒンタービッヒルにも行かなかったはずです。私もヒンタービッヒルの標識を撮ってきました。証拠写真ということで、私も一緒に。ただ、ここで終わりの赤い斜線がが入っています。
ponko310
2019年11月04日 04:03
ryoさん
私の報告に同感してくださるファンの方がいらして下さることが嬉しいです。
私達、しばらくこの場所に留まりましょうね。
30年も経てば木々はこんもりと茂って来ますから景色も変わるのかもしれません。
それに明るい色の木造建築も、保護塗料などを塗られているうちに色が濃くなってきます。
水車小屋の動画にイスリッツァーが写って入ますが、どうですか?
そのホテルのバルコニーで旧ホテル・WSKを眺めることが出来たなんて、凄く素敵です。
私の標識はマリアヒルフ教会への道でしたが、ryoさんの標識は何処に立っていたのでしょうね。
リンツへの道かな。
yuka
2019年11月04日 13:46
姐さま
この景色は野ばらの映画そのもので、姐さまの感動がそのまま伝わってきます。
この自然は美しいなどというレベルではなく、ここを登って行けば虹の橋に続いているのではないか、天国へ繋がっているのかと思う程のものです。
大自然の中にある素朴な教会、小さなキリスト像、また水車の水の音がリアルすぎて魂を揺さぶられます。
ここは野ばら巡礼の地でもありますが、ひとつの理想郷かも知れません。
閑話休題
話を映画に戻すと、半世紀以上も経ったとは思えないくらいに景色が当時のままで、姐さまの現場検証能力の高さ(タヌキ様の嗅覚?)にも感心しながら、ただただ感動の回でした。
当DVDを今後はまた違った見方でも楽しませていただけると思います。
早速時間がある時に見直します。
今回も素晴らしいブログをありがとうございました。
ponko310
2019年11月04日 18:39
yukaさん
私にとってこのコメントは身が縮むような賞賛そのもので、ヒンタービッヒルに行った甲斐が大きく残りました。
いつも思うのですが、私が行くところにあなたを連れて行ったら、きっとものすごく愉快だと思います。
yukaさんの反応はオーバーで(うふふ)周りの人を楽しくさせてくれるでしょうね。
DVDを見たら、あの黄色の定期バスは自治体からの借りものだぞ、と分かってしまいましたね。
団員達はあのバスに乗るのが楽しかったそうです。
少年達がハイキングに出かける時の場所をようく見ておいてくださいね。
あの水車小屋に向かっている道を行くのです。
私ももう一度よく見直さないと!!
ryo
2019年11月05日 01:10
ponko様

ponkoさんが撮った写真と私の撮った写真の共通点を探そうとじっくり見ましたが、大きさや向きが微妙に違っていて、自分の空間認知の能力の低さに呆れてしまいました。でも、水車のところの橋の上で写真を撮りました。もちろんテントのあるテラスが良く見える場所で、イスリッツアーの写真も何枚も撮りました。ホテルWSKの写真はけっこう撮っていました。ponkoさんがupしてくださった動画に、イスリッツアーがばっちり写っていて、本当に感激。動画、いただきました。「野ばら」でハイキングしてたところを少し散歩したのですが、ponkoさんは牛の放牧しているところを見ませんでしたか?「野ばら」では馬でしたが。友だちが写っている方のヒンタービッヒルの標識は、ponkoさんの写真と同じところだと思います。私はその反対側で撮ったと思います。リエンツに戻るポストバスを待つ間に撮りました。そういえば、リエンツの中央駅は工事中でホームが無かったのですよ。
ponko310
2019年11月05日 04:16
ryoさん
私が歩いたヒンタービヒルでは牛は見ませんでしたね。
マリアヒルフ教会のある山の上に行く途中に見たかもしれません。
私が撮った標識はそこから戻った時にヒンタービヒルに入る場所でした。
つまりその標識は水車小屋のある道を上がったところです。
ryoさんはリエンツに行く方角、つまりイセル川沿いの道にある小さなチャペルに近い場所でしょう。
標識に赤い斜めの線が入っているのは此処がこの街(村)の出口です、という意味です。
リエンツの駅のホームが無かったなんて、それも見たかったですね。
どうやって列車に乗れましたか?
maa
2019年11月06日 00:00
ponkoさま
ホテルの宿泊費8-9ドイツマルク。その貨幣価値はどれくらいだったのでしょうね。面白いことに、この冊子はちょうど野ばらの時代のものですが、1959年のを見たら10-12マルクになっていました。
値上げ・・・・笑
ところで水車小屋の後ろに見えるハシゴのように木材を組んだものは、何に使うものなのでしょう?
それから野ばらの声を吹き替えたはハンス君は、あのシーンには出演していませんよね。
ponko310
2019年11月06日 00:34
maaさん
私もその頃の価値を知りたいです。
私が高校の頃は1ドイツマルクが確か100円でした。
私が必死で貯金して買ったドイツ語の辞書が1250円。
菓子パンが15円。

水車小屋の後ろの変な木枠は何でしょうね。
私にもはっきりしたことはわかりませんが、ひょっとしたら家畜用のトウモロコシや草を干すためのものかな。

ハンス君が野ばらに出ていたか誰かに聞いてみますが、分かったら記事に書き込みますね。
ryo
2019年11月06日 01:04
ponko様
水車の水の音を思い出しました。確かに聞いた豊かな水の音。
ヒンタービッヒルを去る日だったので、私はヒンタービッヒルはここで終わりの標識で、友だちはここで過ごしたよ、の意味を込めて、お互いに写真を撮りました。牛は少し上の方の斜面にいました。自然のラズベリーを食べたり、日本では経験できませんよね?私たちは、リエンツからインスブルックに行く予定でしたので、ホームは無いわ、列車は来ないわ、で不安になりかけた時、駅員さんらしき人を見つけ、友だちは急いで”トレイン、ニヒト?”と尋ねて、私を”カム ヒア”と呼んだのです。彼女はどこの人?列車は来ないからバスで行けと言われました。インスブルックまでバスで行くのかと思いきや、ブレンネロというところでおろされました。ブレンナー峠ですね?イタリア部分をバスで、ボルツァーノからは列車で、インスブルックに行きました。なんせ、足跡をたどる旅なので、宮廷教会と宮廷合唱団を作ったマクシミリアン1世ゆかりの地は訪れなければならなかったのです。3時にインスブルックに着いて、駆け足でゆかりの場所を見て、夜行でまたまたウィーンに戻りました。ハードだわ。30年前だからできた旅です。
ponko310
2019年11月06日 20:05
ryoさん
牛はいなかったのですが、バス停の上の丘にはラズベリーが残っていました。
このコメントをきっかけにryoさんの思い出としてその写真を載せますね。
ついでにそこに咲いていた草花の姿も。
私も甘いラズベリーを摘まんで来ましたよ。
私はこの名前が蛇イチゴの事だとばかり思っていましたが、キイチゴと言うのですね。
日本では食べたことも無く名前も知らなかったのでネットでようやくわかりました。
ブレンネロですか。
何と言う偶然でしょう。
私達も車で次の日にそこに向かいました。
普通なら通り越すのですが、何故かプッ夫クンに頼んでそこの駅に止まってもらい写真を撮って来ました。私の理解するところではリエンツからバスでブレンネロ経由でボルツァーノまで行って、列車でインスブルック?
その日のうちにウィーンまでじゃ、ほんと、私の今の歳じゃきついわ。
ryo
2019年11月07日 01:47
ponko様
ラズベリーの写真、ありがとうございます。そうそう、これですよ。甘ずっぱくて、どこかなつかしい味ですよね?ponkoさんもたべたのですね?ラズベリー、ドイツ語でHimbeereというのでしょうか?beereが付く実がドイツやオーストリアにはたくさんありますね?それをドイツ語辞典で調べると、すべて「すぐり」になっていました(笑)
何か、よくわからなかった木を組んだもの、子どもを干すもの、なるほど、何人ものトニーがいたのですね?高度の高いヒンタービッヒルは、歌う少年たちの喉にはよくないので、タウチュニッヒ団長はヒンタービッヒルより温暖なヴェルター湖畔のセキルンに少年たちの家を移しましたよね?でも、多くの団員がホテルWSKで暮らし、たくさんの草花がしげる美しいヒンタービッヒルの景色の中で、楽しく過ごしたことは確かですね?
フォアアールベルクの旅もお待ちしています。
ponko310
2019年11月07日 18:10
ryoさん
私は散歩に行ってヒンベァ(ラズベリー)を見つけると必ずつまんでいます。
卑しいと言うか、どうしても食べられる自然のものが目に付いてしまうのですね。
日本ではすべて「すぐり」になっているのは困りものです。
タウチュニヒ団長がそのような意思でセキルンに移ったとは知りませんでした。
確かに寒さは喉に良くないですものね。
セキルンへの想いを抱いている元団員は沢山いたのでしょうね。
あそこは本当に人の故郷のような感じでした。
ryo
2019年11月08日 02:31
ponko様
1937年当時の団員たちが、戦争が始まったせいで、オーストラリアから故郷に帰れなくなり、オーストラリアで暮らすしかなかったこと、言葉で書くとたやすいのですが、なんて残酷なことでしょう。オーストリアにいる実の親の元に帰れない、知っている人のいないオーストラリアで暮らす不安や悲しさ、察するに余りあります。500年の合唱団の歴史の中では、何度も戦争はあり、団員にとっても不幸な歴史はあったと思いますが、やっぱり胸が痛みますね?「野ばら」のトニーも両親と別れ、何百人の死者を出したハンガリー動乱からオーストリアに逃げてきたのでした。オーストラリアでたくましく生きた団員たちのお孫さんが、遺灰を持ってヒンタービッヒルを訪れたこと、長い長い公演旅行を終えて、やっと故郷に帰ってきたのですね?ウィーンでなくヒンタービッヒルの少年の家だったこと、幸せな時間を過ごしたヒンタービッヒルはずっと生きていく支えになったのでしょうね?
ponko310
2019年11月08日 18:25
ryoさん
帰国できなかった少年達の切ない気持ちを思うとやり切れませんよね。
でもあの当時、オーストラリアの人々の裕福な暮らしに自分達の国と貧しさと比べたそうです。
彼らの何人かは戦後何年かして、里帰りしたそうですが、その時のオーストリアの経済の発展に驚いたそうです。
でも当時は飛行機代も高かったし、全ての少年が帰れたわけではなかったのでしょうね。
私がヨーロッパに行った時は飛行機はウィーンまで片道40万円だった記憶があります。
ちなみに事務員のお給料は平均3万から5万ぐらいじゃなかったかな。
もう覚えていないけれど、だれか覚えている人いないかな。
何はともあれ、ウィーンモーツァルト少年合唱団のこのお話はいつまでも心に焼き付いたままでしたが、ヒンタービヒルに来て、ここでこの少年合唱団の痕跡に遭遇することになるとは夢にも思わなかったのです。
maa
2019年11月08日 21:32
ponkoさま
ゼキルンとヒンタービッヒルは、戦前から戦後の豊かな社会への変化もあり、ひとくちでは語れませんね。67年組になるともうヒンタービッヒルには行ってないようですが、そこで過ごした団員には、どちらにもそれぞれ素敵な思い出があることでしょう。ヴェルター湖畔は観光地となっていますから、子どもたちも湖で遊んだり快適な生活を楽しめます。
でも繰り返しになりますが、オーストラリアで人生を終えたグルーバー組の元団員は、時がたってウィーンに帰る場所がなくなっても、ヒンタービッヒルにはあの岩が残っているだろう・・・と、若い孫に自分の遺灰を託したのですよね。シュニット神父が子ども達のために作った「故郷」は、貧しい時代だったからこそ味わえた夢のような夏の日々だったのではないでしょうか。
先日こんな記事を見つけました。
https://www.gakushu-kai.com/?p=3728
これは数年前の企画ですが、今年の夏には中国と思しきアジアの合唱団?の子どもたちが、WSKとゼキルンで過ごしている写真を見ました。ゼキルンの山荘も時代とともに変わっているんですね。
ヒンタービッヒルにはもうホテルWSKはありませんが、ないからこそ記憶の中の聖地として今も息づいているような気がします。
ryo
2019年11月08日 23:35
ponko様
確かにアメリカやオーストラリアは戦争で国土が荒れることはなかったですものね?ヨーロッパは全土が大きな被害を受けましたから、オーストリアに帰っても家族が生きている保証もなかったですよね?ponkoさんのおかげで、全く知らなかったヒンタービッヒルの貴重なお話を知ることができました。
ホテルWSKはしあわせなことも悲しいことも知っていますが、セキルンはずっと平和で嬉しいです。
ponkoさんの初めてのウィーン旅行は40万円ですか?私がヒンタービッヒルを訪れた旅行では19万円ほどでした。スカンジナビア航空でした。パンナム撤退の後で「兼高かおる世界の旅」のスポンサーがスカンジナビア航空でした。コペンハーゲンの空港で、兼高かおるさんとテニスのステファン・エドベリと遭遇しました。
ponko310
2019年11月09日 05:13
maaさん
案内状の紹介をありがとう。
開けてびっくり、見てびっくり。
1975年の日本公演のプログラムに、日本からのファンが集まってアウガルテンを訪れるツァーの報告があって、いよいよ団体客が行くようになったのかと驚きましたが、今では世界の合唱団が夏の宿舎で一緒に練習できるのですね。
オーストラリアに残った少年達のヒンタービヒルへの想いには私もしみじみとした気分になりました。
戦後間もなくして生まれた自分も当時の事を思い出し、今の恵まれた時代との差を比べて複雑な気持ちになりました。
ponko310
2019年11月09日 05:42
ryoさん
あ、言葉が足りませんでした。
私が旅行した時代の飛行機代は片道が40万ほどで、普通の若者にはとても手が出せるものではありませんでした。
当時の人は船でロシアを周ってヨーロッパに行ったものです。
兼高さんとお会いできたのですか。
上品な方だったでしょうね。
ryo
2019年12月11日 01:44
ponko様
ponko様のブログを拝見すると、WSKのとてもコアなファンがたくさん登場しますね?ドイツ語が堪能で、情熱も半端じゃなくて。ponkoさんやekさんも船でロシアを経由したり、大枚出して飛行機で行ったり、私も熱い気持ちは持っているつもりでしたが、勇気も積極性も私が太刀打ちできるものではありません。だから、書くのも恥ずかしいですが、ヒンタービッヒルに行く前日の朝、私と友人はウィーンから夜行でクラーゲンフルトに着きました。車内からヴェルター湖が見えました。合唱団が当時ジャケットやグラビアの写真を撮っていたミニムンドゥスへ行き、それからバスでセキルンへ向かいました。セキルンで道がわからなくて、ヴェルター湖沿いに歩いた歩いた。道端からヴェルター湖へ抜ける地下道を見つけ、くぐると、子どもたちが騒いで遊んでいました。どんなに騒いでも、外に声が漏れないので、なかなか行きつかなかったのです。ホテルコロタンに泊めてもらうことになりました。夜、山荘まで歩いてみたら、タウチュニッヒ団長らしき人が車から出てきました。日本から来たミーハーだと思われたかも。翌日、それは、感動の一日の始まりでした。山荘の近くで、せめて子どもたちの歌声が聞こえないかとうろうろしていたら、団員の家族らしき人から声をかけられました。息子が団員で、一緒に来いと誘ってくれました。strange parentsとして。息子の写真をもらい、さらに山荘の中まで入れてもらいました。ponkoさんはもうご存知だと思うのですが、シャワールーム、体育館、ベッドルームなどをのぞいてきました。ロビーのようなところに、55年組の写真と64年組の香港での写真があって嬉しかったー。プレフェクトとも握手したけど、ponkoさんならすぐに名前がわかるのでしょうね?息子の名前は、マルティン。一緒に外に出たら他の団員たちが「おはようございます」と、日本語で言って、通り過ぎていきました。来年、マルティンは日本へ行くと聞き、マルシーク率いるブルコアの子だった幸運に感謝。これは、翌年に続くことになります。現実の団員たちを知らないと言って、いつもponkoさんたちをうらやんでばかりいますが、マルティンは私の前に現れた雲上人でない初めての地上の天使になりました。私たちは外まで見送ってくれた親切なホテルコロタンの奥さんに別れを告げ、クラーゲンフルトから列車に乗りました。ヴェルター湖と別れ、一路、東チロルを目指します。セキルンで明け、ヒンタービッヒルで暮れるという私にとっては、夢のような1日になったのです。長々とすみません。
ponko310
2019年12月11日 03:13
ryoさん
長々と-----ですって?
物足りなくて、もっともっと聞きたいです。
ミニムンドゥスには私も行きましたが、ryoさんは何とセキルンに行き、ヒンタービヒルにまで行った。
私よりも「野ばら」で知ったウィーン少に対する気持ちは深いと思いますよ。
あぁ、セキルンで合宿所を探してお友達と歩き続けた様子が頭に浮かびます。
そうなのです、その地下道こそウィーン少年合唱団専用の湖畔に通じる秘密の入り口なのでした~。
ホテルコロタンとは何と楽しそうな名前。
でも、落ち着かなくて山荘まで行ってみたのですね。
羨ましいなぁ~。
私はアウガルテンのシャワー室やベットルームを見ましたが、山荘には近づいたことも無かったのですから。
今年、ヒンタービヒルに行ったことを知ったハラルドが、帰りにはセキルンに行けば丁度合宿の団員達に会えるよ、と言ってくれましたが、もう知らない子供達に会う興味が薄れてしまっているのです。
熱い気持ちを持ちながらその旅に出られ、行きたいところに行けたryoさんは本当に良かった。
そしてあなたと接したマルティン君が我が愛しのブルックナーコアだったとは、なんとまぁ、心の踊ることでしょう。
ミーハーに徹してキャァと叫んで飛び跳ねたいところですが、ひどい捻挫をして痛いので我慢します。
翌年はそのマルティン君と日本での再会がありましたように期待してもいいでしょうか。
本当に素敵なお話に感謝します。
ek
2019年12月11日 05:39
ryo様

なんて驚くべき素敵なお話なんでしょう!
お話くださってありがとうございます。
ryoさんやPonkoさんの熱い想いと行動力には、私のウィーン愛なんて足元にも及びません!お二人だけでなく ここに集われる皆様の行動力 熱い探求心は伏して仰ぎ見る思いでいっぱいです。
もちろん、あの頃の私だって熱い心で旅立ったのですが余りにも心の幅が広すぎました。
なんて素敵な冒険!なんて素敵な出会い!
Ponkoさん同様 続きのお話が楽しみです。
夜中にドキドキです。

Ponko様

捻挫は大丈夫ですか?お大事になさってくださいね。
ryoさんの素敵なお話に跳び跳ねて悪化させないようになさってくださいね。
それにしても、Ponkoさんのお部屋は真夏のような熱いもので満ちていますね。
皆さんの熱い想いに比べたら、私の旅は厚みがない!熱さが足りない!幅が有りすぎて薄っぺら!
皆さんに自慢げにお話するほどの内容がありませんでした(泣)。
皆さんのお話に比べたら、ただただ自己満足の旅だったようです。
自分は一番のウィーン少年合唱団のファンだ!なんて口避けおばさんになっても言えるものではないようです。
あぁ~56年前に戻りたい!そして我がウィーンファン歴を もっと熱い思いで塗り替えしたい!
そして、Ponkoさんのお部屋で今の私がいただいているように 皆さんに熱い思いを届けたい!
でも、これだけは一言 我が友達が与えてくださった私への友情は世界中の方々に自慢出来る素敵なものでした。
ponko310
2019年12月11日 15:54
ekさん
日本から友人が遊びに来るというのに、捻挫した足と手が未だ痛くて、大したおもてなしが出来そうに無いのが心配です。
はい、ryoさんのお話にも心の中だけで踊り上がって飛び跳ねておきました。
ekさんの旅のお話だって、私は他と比較できないくらい素敵だと思います。
憧れの街に行ってその空気を吸うことが出来る旅は全てが素晴らしいとは思えませんか。
ましてや心の新鮮な青春時代に自分の大切なペンフレンドに会える旅は忘れようがありませんものね。
私は当時自分が出来なかった事を此処で読んで、羨ましいと思いながらも、お話の場を想像しながらそれ以上に楽しんでいます。
ekさんもまだお話して下さっていない楽しい思い出が一杯残っているのではありませんか?

ek
2019年12月11日 22:39
Ponko様

私の旅にも優しい言葉をありがとうございます。 
旅立ちの日までの私の熱い憧れは、それは全身燃えたぎる思いで必死とその日に向かっていました。そして横浜港から日本を離れた時の胸の高鳴りは津軽海峡の荒波等問題にならないくらい激しいものでした。(事実 津軽海峡を横切る時 乗船していた多くの方々は船酔いでグロッキーでした。私以外は。)
旅に同行した友人達はWSKのファンなだけではありませんでしたから、ウィーンでの素晴らしい思い出の他にチェコ*当時の両ドイツ*ポーランド*ルーマニア*ブルガリアの合唱団の友達から素晴らしい思い出と時をいただきました。「野ばら」の原題の様に我が生涯最良の日々でした。米ソ冷戦時代の旅です。Ponkoさんも経験なさったように問題山積みの旅でした。でも、その全てが素晴らしい思い出となって今の私を支えてくれています。そんなお話をしだしたら、年が明けてしまいます。
Ponkoさんの館に集う方々の多くはWSK応援団の皆様です。
場違いのお話をしてはと思いますので、いずれ私の熱い思い出をそっと聞いてください。
それより、Ponkoさん!日本からのお客様を迎えるにあたっても どうぞご無理はなさらぬよう!その方との楽しいひとときのお話やらチロルの旅の続きをお話くださる余力は残しておいてくださいね。
ここしばらく ウィーンの昔の物語じゃなくてウィーンの64年のお話と歌声で心が踊っておりましたが、寒い冬をむかえるにあたり ryoさんがお話くださったように爽やかなアルプスの暑い陽射しを感じさせていただけるチロルの旅の続きやら、華やかなドイツのクリスマスシーズンのお話を聞かせてくださいね。もちろん捻挫なさった手足に負担のかからない程度に。楽しみにお待ち申しております! 
ryo
2019年12月12日 01:24
ek様
ek様の心の天使のお話と64年組のコンサートのお話を読むたび、私はどんなにうらやましく思ったことでしょう。私は64年組に何とか近づけないかとず~っと思い続けているのです。ek様の経験は、私がどんなにあがいても経験できるものではなく、それがどんなに貴重なものであるか、わかってください。そして、これからも折に触れてお話をしていただきたいのです。

ponko様
私の持っている「青きドナウ」は字幕です。
この旅行はまだ終わらないので、もう少しお付き合いいただけますか?
信じられないような偶然に恵まれたセキルンでした。私には奇跡に思えます。ホテルコロタンの女性のオーナーに、「あなたたちは、ウィーン少年合唱団の子に会いに来たの?」と尋ねられました。
コロタンの女性オーナーも素敵な方でずっと見送ってくれました。例のホームがなかったリエンツからバスと列車を乗り継いでインスブルックへ。芸術に理解のあったマクシミリアン1世ゆかりの宮廷教会やホーフブルクなどをめぐり、夜行でウィーンに戻りました。まだホテルに荷物を置いて、まだ行ってないアウガルテン宮殿に地下鉄で行きました。門が閉まっていたのですが、小さい門の鍵がかかっていなかったので、怒られたら謝って出てこようねと、入ってしまいました。「野ばら」で団長が世話をしていたバラを見て、「南国のばらだわ」と話しました。らせん階段も老人の家もプールも外からのぞいてきました。うろうろしている私たちに途中で出会ったプレフェクトらしき人たちにとがめられることもなく、遊んでいる少年たちにも挨拶され、追い出されなくてすみそうと思いました。ponkoさんが、今はアウガルテンに入るのは難しくなったと書かれていたので、昔でよかったとつくづく思います。アウガルテン宮殿の正面を見わたせる場所に3時間ぐらい座っていました。時間は気にならず、何時間でも見ていられる。ここでシャーリング君もピューリンガー君も学んだ。今はマルティンも学ぶ。時を超えて少年たちを見守ってきたアウガルテン宮殿。アウガルテンは目の前にあり、変わらない。子どもたちが入れ替わっても、そのままのアウガルテンがある。見ていると、なつかしいような、夢のような、それでいて少し物悲しく感じたりもして、離れがたいアウガルテン宮殿でした。
ek
2019年12月12日 20:04
ryo様

優しい言葉をありがとうございます。確かに今となっては64年組の生の演奏を聞く事は出来ないですものね。そんな素敵な時を持てた自分の幸せは何ものにも変え難いものなんですよね。
そして、その時にスタッフの方がおチビの私達が席を立ち、ステージ近くに行くことを認めて誘導してくださった事 言い様のない幸運でした。そして あまりの感動にじ〜っと見つめてしまった私をW君が覚えていて下さり手紙にお返事をくださった事。そしてその幸せな時が45年も続いた事。大切な宝物です。

でも、ryo様も素敵な思い出 出会いをお持ちではありませんか!チロルでの素敵な思い出 そしてウィーンでの出会い。そんな素敵なryoさんの思い出を想像で描いてしまいました。
今までシャーリングさんやピューリンガーさんのお名前が何度もコメントに書かれていたryoさんにそんな天使くんとの出会いがあったとは…。ますますお話が楽しみになってきました。
ponko310
2019年12月12日 20:23
ekさん
時間は違うとも、お互いに同じコースを辿ってウィーンまで行った旅のお話はきっと沢山の共通点があると思います。
12月は何やかんやと忙しい月なのでコメントのお返事もままならずですが、ファンからのコメントを楽しみに来る方もいらっしゃるので、頂いたコメントはなるたけすぐに公開しますね。
チロルに旅の記事も終わっていないのに…実はアメリカのt日の記事も終わっていない・・・・時間が経つのが早くて。
ponko310
2019年12月12日 20:34
ryoさん
黙って入ってしまったアウガルテン。
そこの正面で3時間も座っていた・・・・気が遠くなるほど羨ましいです。
私も5月にタウチュニヒ団長からアウガルテンへの訪問を許可されていました。
でも、病に倒れた友人を置いて一人で行くことは到底できませんでした。
友が元気だったら私もきっと彼女と二人でryoさんみたいに見学の後の余韻を楽しむために何時間も前庭に座っていたのかもしれないです。
青春時代に同じ趣向の友と一緒に語りながらアウガルテンの庭園に座るなんて、私の高校の時の夢物語みたいです。
ryoさんの旅のお話はまるで夢物語なんだわ。
ryo
2019年12月13日 20:24
ponko様

できれば、堂々と入りたいです。とがめられたら、写真を1枚だけ撮らせてくださいとお願いするつもりでした。ウィーンに戻った私たちは、リンツを経由し、レーゲンスブルグに入り、オーストリアにしばし別れを告げました。レーゲンスブルガードームシュパッツェンはとても評価が高かったので、ドームから降り注ぐ天使の声を聴きたかったのと、漫画「オルフェウスの窓」の舞台だったので、行こうと思ったのです。ドームは修復中だったので、近くの小さい教会でミサを聴きました。ミサが終わった後、外でレーゲンスの雀たちと写真を撮りました。
それで、前半の合唱団の旅を終えて、後半のルードヴィヒ2世の旅が始まります。ミュンヘンからサウンドオブミュージックの舞台ザルツブルグに日帰り旅行して、その翌日ミュンヘン空港で、兼高かおるさんと遭遇。コペンハーゲン空港で乗り継ぎ、帰国しました。
ponko310
2019年12月14日 03:39
ryoさん
今はアウガルテンに入るのは難しいみたいですから、そうやって中に入れた時代に行けたことは幸いでしたね。
大抵の日本のファンは黙って中に入っていたみたいです。
でも私は中が見たかったのでアウガルテンにお願いしました。
それも運が良かった時代だったようです。
今度アウガルテンを見ることが出来たら、きっと宮殿を支えている柱の一本一本に触って来るかも。
レーゲンスブルグでのミサも素敵だったと思います。
私はベルリン大聖堂で聞きました。
今度のハイドンコアもベルリン大聖堂で歌います。
私は行きませんが、きっと感激の歌声になるでしょうね。

ryo
2019年12月16日 22:29
ponko様

番外編 空振りメートリンク
 当時、少女雑誌には、個人情報が書かれていましたから、ものすごく確率の低い話ですが、ひょっとしてまだガストハウスをやっているかも、そうしたらランチを食べて、と勝手に妄想していました。おうちは、少女雑誌のまま。でも、主はいませんでした。「夏草や 兵どもの 夢の跡」むなしく終わったメートリンク。
64年組はやっぱり雲上人でした。ウィーンに戻って、ドナウ下りで知り合ったデュッセルドルフの公務員のおじさんにホイリゲでご馳走してもらい、心を癒しました。
ponko310
2019年12月18日 21:05
ryoさん
たとえ空振りでも、期待があった間は素晴らしい気分だったでしょう?
私は同行の友人と、それは楽しい期待の時間を過ごしました・・・・彼女が突然倒れるまでは。
ryoさんはお友達と喜んだりがっかりしたり、いつも一人ではなかったのが幸運だったと思います。
メートリンクで64年組だった彼に会えるかもしれないと言う妄想は読んでいてこちらにまで伝わって、何だか私も勝手に想像してしまいました。
そのお店に入って恐る恐る椅子に座ったら、白い前掛けを付けた好青年がメニュー表を持って来て、お飲み物は?と聞くのです。
ryoさんはその彼の綺麗な青い目に圧倒されて口が利けなくなってしまう。
もう二人とも食べ物なんか喉に通らないですよね~、あはは。
空想って楽しいです。
ドナウ下りで知り合ったデュッセルドルフのおじさんと後日ワインを飲むなんていう時代があったのですね。
海外旅行が日常茶飯事になっている今だったら、ただの通りすがりで終わってしまいそう。