175 オールドのみんな、2018年になりましたね

今年一番初めに言葉を交わしたのはプッ夫クンの次に、まず横浜にいる母でした。
日本はすでに朝の8時過ぎになっていましたが、こちらはまだ真夜中で、表では四方八方からシルベスターの大きな花火の音が聞こえています。
その爆音に猫たちが怖がらないようにすべてのシャッターを閉めていたので、うるさいのは部屋のテレビ放送のブランデンブルク門での大騒ぎ。
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電話はすぐに繋がって(昔は回線の混雑でいくら掛けても繋がらない時間帯とかがあったのですよ)向こうから聞こえてくるのは年が明けても明けなくても、いつも通りの元気な母の声。
年末はどう過ごしたか聞くと、「あぁ、いつもと同じだよ。」
「な~に? じゃ、もう7時に床についたの?」
「当り前じゃないか、調子が狂っちゃたまんないからね。」

母は大正13年の生まれですから、私がウィーン少年合唱団に夢中になっていた年代の頃、母のその時代は第二次世界大戦が始まっていました。
うわっ、うわっ、こりゃぁ~、大した違いなんだわ。

オールドの皆さん、あなた達はご自分のお母様の思春期や青春時代の頃のお話を伺っていましたか?
私は日本にいる頃はそんな話は母との間で一度もなかったのですからね。
何しろ母は自宅経営の工場で若い住み込み工員達の食事の面倒や仕事の事務処理や、気難しい夫(我が父じゃ)と幼い私たちの世話など何から何まで一人で切り盛りしてきた人でした。

母は横浜の女子高校を卒業すると日本飛行機と言う練習機の製造会社で会計の仕事に付いていました。
そのうち午後になると微熱が出る日が続くようになり、体がだるくなって食欲も無くなって来たのです。
レントゲンの検査を受けると結核に掛かっていると言う診断でした。

その時代は薬も食料も不足していて、民間人は結核に掛かると殆ど死ぬ覚悟をしなければならなかったそうです。
滝練太郎も森鴎外も竹久夢二も結核で亡くなっちゃってるんですよね。

その頃の母達の住む家は円山町にある平屋の長屋でした。
部屋は6畳と3畳の2つしかなかったのですが、玄関の土間に小さな部屋を作って母の静養のためにベットを買って置いたそうです。

すでに第二次世界大戦日本局面の大東亜戦争が初まっていました。
その時の母はまだ18歳でしたが、上司や仲間が結核で亡くなったと次々に知らせが来るので自分も真近な死を覚悟したそうです。
けれど、ただベットに横たわっているだけが毎日なら、せめて吉屋信子の少女小説を読みながらその主人公を自分に置き換えて空想の世界で生きようと決心しました。

病は気からという諺は理由なくしてあるわけじゃなかった。
素敵な空想の世界を描きだすようになってから、母はその1年後に結核を克服したのです。
母の結核は本物の病だったけれど、本を読みながらすてきな空想をすることによって、幸せホルモンが分泌され、それがきっと結核菌への抵抗力をつけてくれたのだと思いました。

え?新年早々私が何を言いたいのかって?
そんな空想と同じく、幸せホルモンの分泌に役に立つ『思い込み』だってみんなにも大いにやってもらいたいって事。
オールドファンはいつまでも青春時代を生きているんじゃ~。

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