193 今更、映画「野ばら」のチロルの山荘

1963年の中学生の最後の夏休みでした。
宙を自由に舞うピーターパンに憧れて、そのアニメを見に行ったら、心を奪われたのは同時放映されていた映画の、豪華な宮殿に住み美しい声で歌う横わけの髪の少年達の方にでした。
ここに来る若き日のオールドファンのブロ友さん達と同じですよ~。
さて、ごく幼少の頃だったのですが、横浜の伯母の高台の(実際はアメリカナイズされたお隣のばっぱの)家で、ラジオから流れる日本の児童合唱団のクリスマスソングを聞いたのを覚えています。
カラフルなランプの点いた小さなクリスマスツリーの横で「諸人こぞりて」を聞きながら、繰り返される「シュワキマセリ」の意味が分からなくてアメリカ語だと思っていました。
綺麗な歌声だったのは覚えていましたが、そのずっと後で見た映画のウィーン少年合唱団の鈴のように響く歌声とは違うものでした。
そうそう、つい最近のニュースですが、1465年にフリードリッヒ選帝侯によって設立されたベルリン国立大聖堂少年合唱団が、生粋の「少年合唱団」の伝統を守り続けると発表しました。
https://rp-online.de/panorama/deutschland/maedchen-darf-nicht-im-knabenchor-singen-mutter-klagt_aid-44996871
続いてレーゲンスブルク少年合唱団からも同じ発表がありました。
https://www.br.de/nachrichten/bayern/bald-auch-maedchen-bei-den-regensburger-domspatzen,RLp2Xkn
少年と少女では解剖学によって証明された声の違いがあるそうですよ。
音楽の才能のある9歳の少女が大聖堂少年合唱団の入団を断られて、その母親が裁判にまで持って行ったことからニュースになったのですが、法廷は伝統と芸術を重んじて「少年合唱団」は少年達のみで形成すべきと判断してくれました。
少年合唱団の歌声から何か特別な神聖さを感じて来たオールド達には、やはり特別な聴感能力があったっていう事になりませんかいな。
おっとっと、完全に道が逸れないうちに話を戻します。

フロシャウワー隊が来た翌年の1965年、フジテレビのテレビ名画座で偶然「野ばら」を見ましたが、ウィーン少年合唱団が出て来る映画とは全く知らなかったので、この場面で思わずパッと(今はよっこらしょの年代で)立ち上がりながらキャーッと叫んでしまいました。
この整然と並んで行進する少年達が画面に突然現れた時、64年組でやれなかった「キャーッ」を此処で初めてやってしまいました。
その時は運悪く、これまた偶然、横に大の外人嫌いの父が座っていたので、それはそれは物凄い軽蔑のまなざしで睨まれ-------。

その頃は合唱団はすでにセキルンの湖畔に移っていたのですが、いつもワンテンポ遅れている私は、アルプスの少女で憧れた、チロルの山々に囲まれた山荘のある場所の方が気に掛かるようになっていました。P1060918.JPGだって、感激して聞いていた古いレコードは、このチロルの山荘で夏を過ごした団員達が歌っているものばかりなのですもの。私の人生を変えた映画の「青きドナウ」に出演したウィーン少年合唱団の少年達も皆、あの山荘で夏を過ごしていたはずなのですよね。
チロルの山荘を知らないと言うウサギちゃんだって、彼のお父様は団員時代にこの山荘でオペレッタを演じていた一人なんですもの。
そう考えたら胸がキュンとしてきました。

さてそういう事で、私はこの夏、長い間の念願が叶って、ようやくその山荘のあったヒンタービヒルに行ってきました。H 2.Aug a.JPG「野ばら」や「ほがらかに鐘は鳴る」の映画を見ただけでは、わざわざあんなところまで行く気にはならなかったのでしょうが、1968年にオーストリアでこの「ウィーン少年合唱団」の本が出版されました。WSK.jpgウサギちゃんの親友のヨハネス君が表紙になっているこのドイツ語の本は、訳すのが面倒で写真だけ見てそのままになっていましたが、日本語版を手に入れて読んでから、いつかその伝説のチロルの山荘に行ってみたいと思うようになっていたのです。
そのページを写メして画像を入れながら自分なりに編集してここに載せますから、ま、読んでみて下さい。
blume-0417.gif von 123gif.de
東京音楽社「ウィーン少年合唱団」より 
        団員達のチロルの山荘
チロル山荘1.jpgヴィルゲンタールと言っても判らないのでヴィルゲン渓谷に直します。
で、次に出て来るホーエ・タウエルンは山脈の名前です。
1910年代のヒンタービヒルの様子。Islitzer1910.JPG
手前に白くうねって見えるのは「野ばら」でトニーが落ちたイシル川に繋がるドルフ渓流です。
川のこちら側の下方が後にウィーン少年合唱団のホテルが建てられることになる広大な敷地です。チロル山荘1a.jpg21586209_16.jpgチロル山荘2.jpgPraegraten.jpg2aチロル山荘.jpgtarockkarte.jpgチロル山荘3.JPGHinterbichl.jpgチロル山荘4.JPGWSK.jpg今はその近辺で夏の終わりに氷河などは見つかりませんが、その頃はまだ世界が温暖化していなかったので、山の上には白いきれいな雪が固まって沢山残っていたのでしょう。チロル山荘5.JPGAK_50865275_gr_1.jpgチロル山荘6.jpga.jpgチロル山荘6aa.jpgHint.jpg1936年代のウィーン少年合唱団員とハイモ・トイバー指揮者
15644978024874.jpgもうこれは題名も隊も分からない古い録音です。チロル山荘6a.jpg
wienerschnitzel-mit-kartoffelsalat.jpg1940年代のヒンタービッヒルの風景。1940 Hb.JPG川を挟んでホテルウィーン少年合唱団の向かい側には、この1606年からの伝統ある宿屋のイシリッツァーがあります。
それが当時シュニット神父の見た、たった1件の居酒屋でしょうね。
1950年代のウィーン少年合唱団のヒンタービヒルでの滞在写真を友人のライニーさんがネットで送ってくれましたが、この宿屋の入り口に掛けてあったものでした。
私はその写真を見て自分のこの目でみる事に決めたのです。チロル山荘7.jpgheimat_oldschool2.jpg写真は載せませんが、1939年から1945年までの第二次世界大戦のナチの統治下にあった間に、ウィーン少年合唱団も右手を挙げてヒットラーの為に歌わされた事もありました。
https://www.zeit.de/kultur/2019-03/nationalsozialismus-mittaeterschaft-rechtsextremismus-aufklaerung-10nach8
1935Mozartchoir0.jpg丁度この時期に、1930年から指揮者だったグルーバー先生がシュニット神父との意見が合わず、1937年に合唱団を辞めて新しい少年合唱団を結成しています。
ウィーン少年合唱団と同じセーラー服で帽子は「モーツアルト少年合唱団」の文字が読めました。
彼らはオーストラリアに演奏旅行に出掛けたまま、突発した世界大戦の為に帰国できなくなり、またそこではナチスとして扱われましたが、メルボルンの司祭が彼等の為に新しい少年合唱団を設立して、現地でそれぞれが里親に引き取られたそうです。
チロル山荘8.JPGWSK d.JPGhotel.jpgチロル山荘k.jpg丁度その頃、此処で撮影されたこの二つの映画が公開されました。
ダウンロード.jpg
1956.JPGLinienbus.jpgこのパンダみたいなバスは、本来普通の路線バスなのですが、映画ではまるで合唱団専用バスのように子供達を乗せて走っていましたね。
実際は地区から借り受けただけで、映画では5分間しかない場面だったのに、なんだかんだと撮影に1日中掛かったそうです。
それでこのバスの後ろには私達の良く知っているあのウィーン少年合唱団の小型のVWバスが2台、いつもくっついて回っていたのですって。
みんなはこの大きなバスに乗るのが大好きだったそうです。
それに余談ですが、ブロ友のM・Tさんが看護婦のエリカさんと会った時に聞いたお話し。
ミハエル・アンデは食事の時、他のテーブルで食べていましたが、ある時エリカさんに自分も合唱団員と一緒に座りたいと頼んだそうです。
エリカさんは「あなたが団員達みたいにお利口さんにしているならいいですよ。」と許可したそうです。
オーストリアには古くから「ウィーン少年合唱団のようにお利口さん」、という言い習わしがあるくらいなんですからね。チロル山荘.jpg
ホテルを背に立つレーダーホーゼ姿のマイヤー隊の少年達。Bubenhaus gg.jpg
「そうです。僕たちはホテルで水曜日ごとに20分間のミニコンサートをしました。日曜日の午前は少年達の家の裏でミサがありました。そして午後はそこでオペレッタを演じていました。」
あの美しい歌声を残してくれた当時の団員の方が語ってくれました。チロル.jpg約5000平方メートルの敷地にある上の丸印がホテルウィーン少年合唱団で下の丸印が少年達の家です。
下の白い矢印の場所で日曜日のミサや、コンサートやオペレッタなどが行われていました。
変わりやすいアルプスの気候から子供たちを守るように、ホテルと「少年達の家」は屋根で覆われた通路で結ばれていました。(写真はブロ友のyuichannさんからの提供です。)チロル山荘10a.jpg最後にこの山荘に鍵を掛けた人というのが、なんとその8年後の1971年にアウガルテンの案内役をしてくれたグレーガー先生でした。
このブログにもタウチュニヒ団長の右腕として良く名前が出ています。
初めてのペンフレンドのウサギちゃんや友人のライニーさんのプレフェクトでもあり、レコードで初めて見つけたソリストの名前でもあり、その先生が伝説になってしまった夏の山荘を閉じた方とは感慨無量です。
チロル山荘10.jpgチロル.JPG1963年まで少年達はチロルで夏を過ごしましたが、セキルンが開設されたのは1965年でした。
で、1964年はど~してたの、と思いましたが、どうやらその年はみんなは家族と夏を過ごしていたそうな。
でもアウガルテンでの合唱の練習は有ったそうです。

さて、ウィーン少年合唱団が去った後の山荘はどうなったのでしょう。_bubenhaus.jpg
eisen.jpgそのヒンタービッヒルの二軒の建物を、タウチュ二ヒ総長から買い取ったのは西ドイツのライン地方に住むレオ・アイゼン牧師でした。
彼は自分の故郷の名を取ってその山荘にホテル・ニーダーラインと言う名を付け、ライン地方の青少年や多くの家族の為に新鮮な空気のアルプスでの保養の場所として提供しました。

1981年にそこを訪れた元団員の方がその時の写真を下さいました。
ホテル・ウィーン少年合唱団の名前が消えて、ガストホーフ(ホテル)・ニーダーラインになっているのがわかります。
1981.jpgけれど、建物は合唱団のいた時と同じ形のままで残っていました。
Hinterbichl-Haus-Niederrhein 1981.jpg私はこの絵葉書を見つけた時に、絶対にこのホテルに泊まりに行こうと心に決めました。
このレストランに座ってコーヒーを飲みながら、元合唱団員のスマートなOB達がお客の接待をしていた昔の雰囲気を感じたいと願いました。
けれどその後に知ったのは、「少年達の家」だった建物で1993年に改装工事の際に火災が起こり、ヒンタービヒル始まっての大火事になった事でした。
1994年には再建されて、ホテルと共に再び経営されるようになりましたが、初めに建てられたホテルは古くなって取り壊しの話も持ち上がっていました。
牧師はウィーン少年合唱団の歴史あるそのホテルを守るために、アパートに建て替える計画で地区との交渉を続けていました。
けれどその計画が実行に移されないまま、2006年にアイゼン牧師が亡くなり、閉鎖されるまでの1年間は従業員たちの手で経営がなされていましたが、使用されなくなってから雨漏りなどで建物の損傷が進んで、とうとう2013年に取り壊される運命になりました。

残された「少年達の家」は2011年にドイツの経営者が買い取り、改築されて2013年からホテル・ハイマート(故郷)として今日に至っています。
Bubenhaus a.jpg次はそこに行ったときのお話しをしましょう。
feld.JPG

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